空海と最澄 ── 親友はなぜ敵対者になったのか
同じ船団で唐に渡り、帰国後は協働した二人の天才。だが密教の理解で根本的にぶつかり、最後はある書状を返却するという象徴的事件で関係は壊れる。なぜ二人は袂を分かったのか。
7歳違いの天才二人
最澄は767年生まれ、空海は774年生まれ。 最澄が7歳年上だ。
歩んだルートは対照的だった。
| 最澄 | 空海 | |
|---|---|---|
| 出自 | 近江の渡来系の家(地方の中流) | 讃岐の地方豪族(辺境の有力者) |
| 出家 | 12歳で出家、若くから国家公認の僧 | 20代まで在家、私度僧として山岳修行 |
| 唐への身分 | 還学生(かんがくしょう、短期エリート留学) | 留学僧(るがくそう、20年予定の長期) |
| 滞在期間 | 約9ヶ月 | 約2年 |
| 帰国後 | 即座に天台宗を開く、嵯峨天皇に重用される | 3年間九州で待機を強いられる |
最澄は正規ルートのエリート、空海は叩き上げの異才 といった対比だ。 出会ったのは、805〜806年の唐からの帰国前後。 最澄は天台と密教を両方学んできていたが、密教の部分は時間不足で完全には吸収していなかった。
最澄が空海に頭を下げる
帰国した最澄は、自分の密教の不完全さを正直に認めていた。 一方の空海は、本場長安の正統 ── 恵果の最高位の伝法を受けて帰っている。 日本最高の密教の伝承者は、誰が見ても空海だった。
そこで最澄は、自分より7歳年下の空海に 「教えを請う」 という姿勢を取る。 これは身分的にも年齢的にも、最澄にとってかなりの譲歩だ。 しかし最澄はそれをやる。
812年、最澄は空海から 金剛界の灌頂 を受ける。 翌年、胎蔵界の灌頂 も受ける予定だった。 最澄は弟子たちにも同様に空海から灌頂を受けさせる。
このとき、空海は最澄に対して敬意を持ち、最澄も空海に対して尊敬を持っていた。 当時の書簡が残っており、二人のやり取りには驚くほどの親密さがある。
なぜ崩れたか ── 経典の貸借をめぐる対立
事件は、最澄が空海に経典の貸し出しを請うところから始まる。 最澄は天台宗を比叡山で運営しながら、必要な密教経典を空海から借りていた。 ところが、ある時期から空海が貸出を断り始める。
最も有名なのは 『理趣釈経(りしゅしゃっきょう)』 をめぐる事件だ。
最澄がこの経典の貸し出しを請うと、空海は丁寧にだが、はっきりと拒否する。 理由は概ねこうだ。
この経典は、伝法の段階を経た者でないと正しく読めない。 文字面だけ読むと、誤解の元になる。 文献として渡すのではなく、対面で伝授するべきものだ。
最澄からすれば「経典を読み込みたいだけ」だが、 空海からすれば 「密教は文字だけでは伝わらない」 という根本の立場がある。 この立場の違いは、本人たちの性格の違いというより、 密教そのものに対する理解の差 だった。
「読書では足りない」という思想
空海が後に書いた『弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)』には、 顕教と密教の決定的な違いが説明されている。 ざっくり言えばこうだ。
顕教は、経典の言葉を理解することで進める。 密教は、言葉を超えた仏のはたらきを、身・口・意の三密で受け止める。 だから密教は、師から弟子へ直接受け継ぐ場 ── すなわち灌頂と伝授が必須だ。
これは現代風にいえば、
「料理本を読んで料理は作れない。横で見て、味見して、身体で覚えるしかない部分がある」
という主張だ。 最澄は読書による吸収力が高い天才だったから、 「教典を貸してくれれば自分で読める」 と思っていた。 空海はそれに首を振った。
最後の決定打 ── 弟子の泰範
決定打になったのは、最澄の高弟 泰範(たいはん) をめぐる出来事だった。 泰範は最澄の右腕的存在で、比叡山の運営に欠かせない人物だった。
ところがこの泰範が、空海の元で密教を学ぶうちに 空海に師事し続けたい と言い出す。 最澄は何度も帰ってくるよう書簡を送るが、泰範は戻らない。
最澄からすれば、空海が自分の弟子を引き抜いた形になる。 空海からすれば、弟子の意思を尊重しただけだ。 この食い違いは、もはや埋まらない種類のものだった。
そして816年ごろ、最澄が請うた経典の貸出を空海が改めて断った際、 最澄は 借りていた経典を全て空海に返却 する。 これが事実上の関係終了の合図だった。
どちらが「悪い」わけではない
歴史を後から見ると、つい「どちらかが悪い」と判定したくなる。 だがこの決裂は、どちらも一貫していて、しかも一致できない種類の問題 だった。
- 最澄は 「仏教全体の総合性」 を信じていた。天台、密教、戒、禅、念仏を全部含み込んだ「日本仏教の総合大学」を比叡山に作ろうとしていた。だから密教も比叡山の一科目として吸収したかった
- 空海は 「密教は独立した完結体系」 だと信じていた。経典を渡せば吸収できる類のものではなく、丸ごとの伝授で初めて伝わる。だから比叡山に「断片」として渡すことを拒んだ
どちらが正しいかは、宗教史的にも結論が出ていない。 ただ確かなのは、この決裂以降、空海と最澄はそれぞれ独立の方向で日本仏教の柱を作った ということだ。
二人が残したもの
最澄の 天台宗・比叡山 は、後に法然・親鸞・栄西・道元・日蓮を生み出す、日本仏教のインキュベーターになる。 空海の 真言宗・高野山 は、密教と弘法大師信仰として、庶民の生活宗教にまで浸透する。
二人が決裂しなかったら、日本仏教はもっと統合された一枚岩になったかもしれないが、 逆にいえば、この分岐がなければ後の鎌倉新仏教の爆発はなかった。 親友が決裂したこと自体が、日本仏教の多様性の母胎になった。
歴史を読むときの教訓があるとすれば、 「天才同士が決裂するときは、性格ではなく前提が違っているのだ」 ということだ。