大学をドロップアウトした空海 ── 24歳の独立宣言『三教指帰』
空海は18歳でエリート大学に入り、22歳で消える。24歳で書いた『三教指帰』は、儒教・道教・仏教を擬人化した戯曲形式で、若き空海が『私はこっちを選ぶ』と世間に叩きつけた独立宣言だった。
18歳の空海が見たもの
奈良末から平安初期、日本のエリート教育機関は 大学寮(だいがくりょう) といった。 ここに入れるのは、五位以上の貴族の子か、地方の有力者の子で特別に推薦された者だけ。 カリキュラムの中心は儒教の経典 ── つまり「国を治める官僚を作るための学校」だ。
空海はここに18歳で入学する。 讃岐の地方豪族の家からのし上がるには、これしかない王道コースだった。
ところが、彼は4年でこれを辞める。
なぜ辞めたのか
辞めた理由を考えるとき、僕たちは「空海は仏教に目覚めたから」とつい簡略化したくなる。 だが、本人が書いた『三教指帰』を読むと、もっと生々しい違和感だったことが見えてくる。
『三教指帰』は、こんな話だ。
蛭牙公子(しつがこうし)という放蕩息子がいる。 親が困っている。 そこに儒教の先生 ── 亀毛先生(きもうせんせい) が来て、儒教的な生き方を説く。 次に道教の 虚亡隠士(きょぼうおんじ) が来て、長生不死の道を説く。 最後に仏教の 仮名乞児(かみょうこつじ) が来て、生老病死を超える道を説く。
オチは「仏教が一番」なのだが、面白いのはここから先だ。 空海はそれぞれの教えを、登場人物にガチで弁論させている。 儒教には儒教の説得力が、道教には道教の説得力がある。 それを並べて自分で比較した上で、「私は仏教に賭ける」と書いている。
つまりこれは、若き空海が
あらゆる選択肢を自分で検証しないと納得できない人間だった
という証拠だ。 教師に言われたから、家族の期待だから、ではなく、自分で全部読んで自分で決めた。
「世間の出世競争に組み込まれたくない」
『三教指帰』の序文には、ものすごくはっきりした文がある。 意訳すると、こんな感じだ。
大学に通ってみたが、結局は出世のための道具にすぎなかった。 学んだ内容も、世間の名利の輪の中で消費されていく。 私は、そこから出る。
これは現代の感覚だと「東大の最終学年でいきなり休学届を出して インドに行くと言い出した若者」みたいなものだ。 家族からすれば、ふざけるなと怒る案件である。
実際、伯父の阿刀大足はじめ、周囲の反対はかなり強かったと推定される。 24歳でわざわざ自分の立場を漢文で文書化して出している時点で、 「俺はこういう理由で辞めるんだ」と世間に説明しないと収まらないほどの圧力 があったと読める。
修行者としての7年間
『三教指帰』を書いた前後から、804年に唐へ渡るまで、空海の足跡はほぼ不明だ。 記録の上では、断片的にこんなものが見える。
- 大和の山中での修行
- 室戸岬(高知)の洞窟での修行
- 大峰山(奈良)、石鎚山(愛媛)など霊山での修行
- 虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を実修
虚空蔵求聞持法というのは、虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える 修行だ。 1日1万回唱えても100日かかる。 肉体的にも精神的にも消耗するこの行を、空海は若い体でやり抜いた。
ここで重要なのは、空海はこの段階で 国家公認の僧侶ですらない ということだ。 つまり、戸籍上は「無職」に近い。家族からは事実上の蒸発状態。 それでも本人は、自分の問いを追って山にいる。
何を追っていたのか
学問仏教の経典をいくら読んでも、空海の中の問いは消えなかった。 その問いはおそらく、こういうものだ。
仏は本当にいるのか。 いるとしたら、どうやってその実在を、この自分の身体で体験できるのか。 言葉の説明だけでは、足りないんじゃないか。
奈良の学問仏教は、経典の解釈や教義の論争にエネルギーを注いでいた。 それは知的にはすばらしい営みだが、空海の問いには直接答えてくれない。
そして空海は、長安からもたらされた 『大日経(だいにちきょう)』 という経典に出会う。 これは密教の根本経典の一つだ。 読んでみたが、よく分からない。 理屈は追える、しかし、これを実際にどう実修するのかが書いていない。
つまり、テキストだけでは届かない。 これを実修できる師匠は、もう日本にはいない。
「だったら、唐に行くしかない」── そう決めたのが、おそらく29〜30歳のころだ。
出立の前夜
804年、空海はようやく遣唐使船のメンバーに滑り込む。 このとき、彼の身分は怪しい。 国家公認の僧侶ではない。家からの援助も期待できない。 そんな人間が、よく遣唐使船に乗れたものだと後世の歴史家も首を傾げる。
最も有力な仮説は、伯父の阿刀大足ら親族の人脈と、空海自身の漢文力が、 最後の最後で効いたというものだ。 何せこの時代、漢文を自在に書ける人材は希少で、 留学生・通訳・書記としての需要は常にあった。
ただし、ここまで来るのに6年。 18歳で大学に入ってから、31歳で唐に渡るまでの13年は、 空海が「自分はどう生きるか」を、世間と家族と教義のあいだで何度も検証し続けた期間 だ。
僕たちが「弘法大師」と呼ぶ前の、無名の青年の 13年の準備 がここにある。